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思いつきを記録していきます

W杯開催とデリヘル利用回数増加の関係性に対する自己物語的解釈

ワールドカップが始まって暫く…


毎試合ごとに興奮、怒り、歓喜、失望といった感情を形容する言葉達が鮮やかに世界を覆っていく。
その波紋は当然ぼくにも届きそれと同時にぼくの中に渦巻く得体の知れない感情の波と衝突してまた新たな波紋を起こす。

そんな異様な空気を纏いつつシティヘブンネットの検索結果一覧に高速で目を走らせる1人の男がいた。そしてそれが自分なのだと認識するまでにそう多くの時間を必要とはしなかった。
本エントリーは平素あまり風俗を利用することのないぼくが、ワールドカップが始まって以来あまりにも性欲が有り余っているという事実を内省したものであり、ワールドカップと性欲の相関関係について、物語的な解釈を加えたものである。

 

先に「得体の知れない」と言ったが嘘だ。
ぼくの感情の不安定さは全てメッシ擁するアルゼンチンがグループリーグ敗退の危機に瀕していることに起因するものだからだ。

 

 

8年前の12月の雪降る夜。
当時高校生だったぼくはその日もテニスの練習を終え、テレビのリモコンを操作してマシな番組がないか漁っていた。お笑いブームも終わりに差し掛かり、しょうもない民放放送に高校生ながらうんざりしていたぼくはたまたまやっていたクラブワールドカップを何と無く観ていた。そして結果としてその日が自分のパラダイムを大きく変えることになった。

 

まず目に入ったのはエンジとネイビーのシャツのバルセロナ。そして幾度となく解説者の口から放たれる「メッシ」という選手の名。
普段サッカーなんて観ていなかった自分からするとサッカー選手なんてブラジルのロナウドリバウド。なんかすごいことをしたマラドーナ。頭突きで退場したジダンくらいしか知らなかったのでメッシが如何にすごい選手かは皆目見当もつかなかった。
そして試合が始まり前半が終わるとバルセロナ、いやメッシに魅了されていた。

クラブワールドカップ、というのだからそれなりの一流の選手ばかりが出ていることは見当がついていたが、彼のレベルは素人目で見ても明らかに違っていた。
よく圧巻のパフォーマンスをする選手に「天才」や「神」といった名を冠すが、彼を見た45分と数分でそれらの手垢のついた形容詞はフットボールに於いては彼のためだけにあるのだと悟った。全くの素人ながら、だ。

それからというもの毎日のようにメッシのプレイ集を観て、バルセロナ、アルゼンチン代表の試合も中継で観た。気づいた時には立派なメッシ原理主義者となっていた。
メッシを起点にフットボールを見始めた自分にとってはもはやメッシ抜きにフットボールと自分の関係性を説明することはできなかった。

それから年間最多得点記録やワールドカップファイナルでの敗退、バイエルンへのリベンジマッチ、リーガ連覇に、CLでのローマに対する敗北など、数年にわたって歴史の変遷を見てきてついに迎えた恐らくメッシが主力として戦える最後のワールドカップ。

 

メッシが世界中の老若男女から名実ともに「神」であると認められるにはこの世界最大のコンペティションで優勝する他ない。
ワールドカップ開催直前から興奮のあまり仕事が手につかなくなっていたが、アルゼンチンの2試合が終わりグループリーグ敗退も濃厚になった今、その興奮は不安、そして失望へと変わりつつある。

そしてこの感情の真因が何なのか考えると、単純にお気に入りの選手が所属するチームが負けることへの反応ではないことが認められた。
先に自分はメッシのことを「神」と形容していたが、この「神」とはキリスト教イスラム教などにおける、所謂唯一神的な「神」であり、日本的な神に対する意味づけではない。
そのことを鑑みるに、ぼくの不安の根源的な理由は、


①自分が「神」と意味づけするプレイヤーが世界中から「神」である、あるいは「神」になると認識されなくなること
②①により自分と外界との認識に大きくズレが生じ、自分の価値観に一種のカタストロフィが起きること


こんなようなところではなかろうか。

 

そしてこの長ったらしい文章を要約すると、
大好きなメッシにワールドカップ優勝してほちい!じゃないとメンヘラになってまう!
という文に凝縮されるのである。

そしてさらに言うなればアルゼンチンが万が一負けた場合、自我を保つためにも早急にサッカーとは違ったベクトルの波紋を自分にぶつける必要がある。
メッシファンの若者は興奮と期待、怒りと失望に葛藤しながらもシティヘブンネットを徘徊するのであった。